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青山学院

まち協のエコ活動

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ハチ公の旅路

渋谷といえばハチ公、ハチ公といえば渋谷。駅前広場に建つハチ公像の周囲はいつも待ち合わせの人々で大賑わいだ。
「そのハチ公が亡くなったのは、両親が開いていた原田屋酒店脇の空き瓶などの木箱を積み上げた路地、店へつながる木戸の前でした」
と話すのは、渋谷区渋谷、ヒカリエ脇のビルにある老舗の酒類販売、タキザワの瀧澤諒一代表取締役だ。
「今では東急東横店ののれん街になっているあたりですよ。
ハチ公が死んだのは昭和10年3月8日。私は生後2ヶ月の赤ん坊でしたが、母のハルノ(平成4年、83歳で死去)が、晩年のハチ公の面倒を見てあげていたんです。それでハチ公の話は母から良く聞いて育ちました」
店の番頭さんが朝、木戸を開けて出ようとしたが何かがぶつかって開かない。どうしたのだろうと、店の方から路地に入ると、ハチ公が横たわっていて、まだほのかに暖かだったそうだ。ハルノさんが駅や警察に電話し、死骸を引き取ってもらった。
「ハチ公は生きているうちに銅像が出来て派手に騒がれましたが……」と瀧澤さん。

『渋谷駅100年史』(昭和60年3月発行)によると、ハチ公の銅像が渋谷駅前に建てられたのは、昭和9年4月21日だ。ハチ公が死ぬ1年前、ハチ公11歳のことだった。昭和7年10月の朝日新聞にすでに7年前になくなった主人の帰宅を待ち、渋谷駅前に通う老犬ハチ公の様子が掲載されて以来、ハチ公はたちまち全国的に知られ、渋谷駅には現金や食料が送り届けられるようになった。時は満州事変から満州国建国と、風雨吹き荒れる世相。ハチ公は、「忠犬」と呼ばれ、修身の教科書にも取り上げられた。
「ハチ公が渋谷駅のどこで寝泊りしていたか、それは母も知らなかったようです。ただ、うちは酒屋でしたから調味料や乾燥バナナには不自由しなかった。新潟の実家から米も届いていた。だから母はハチ公に食べるものをいつもわけてあげていました。ハチ公は大型犬ですから、人間の何人分も食べたようです。それで最後の安らぎを求めてうちの木戸までやってきたのではないでしょうか」
ハチ公が、飼い主の上野博士のもとで平穏に暮らしたのはわずか1年3ヶ月。博士の急逝のあと、最初は駅員にお弁当をわけてもらい、駅の周辺の店からおやつを口に出来たハチ公も、戦争へと進む時代の中で、なかなかえさを口にできなくなった。野良犬のような生活を送りながら、駅頭をさ迷うようになったといわれる。
そして、銅像建立。一瞬の輝きのあと、ハチ公はまた、渋谷の雑踏をさ迷う老犬へと戻っていたのだ。いまも毎年4月、ハチ公の銅像前では、偲ぶ催しが開かれている。

   2012.01.16